▼包む、収める | 第5回
本連載の語り手は、京都を拠点として作家作品を紹介する不定期ショップ「好事家 白月」を主宰する内藤恭子さん。
OSAJI JOURNALで毎月お届けするのは、内藤さんが見つけた小さな「奇麗の欠片」。
あなたが暮らしのなかで見つける、小さな綺麗はなんですか?
日本人は昔から、あからさまにいろいろなコトやモノを見せることを好まない民族だと思う。私が住む京都では、それが顕著な気がする。
例えば、窓にはめられた格子。中からは通りを行く人を見ることはできるが、外からは中の様子を見通すことはできない。緩やかに空間を仕切って、丸見えにならない。
ポチ袋も、実はそうしたものの一つだと思う。京都ではお正月に限らず、この小さな袋は普段に活躍している。例えば、会費など前もって金額が分かっている支払いの場合は、ぽち袋などに入れて渡すことが多く、金銭をそのまま手渡すことをあまりしない。祇園の女将さんなど気配りに長けた人たちは財布に常備していて、ささっと袋に入れて渡してくれることも多々ある。
そんなこんなでいろいろなモノを、包んだり、箱に仕舞ったりする私たち。最近では、見せる収納というものが一般化して、モノを眺めながら収めることも珍しくなくなったけれど私は未だに、コソコソとあれこれ仕舞いこむのが好き。包むことももはや楽しみの一つでもあるから、好みの柄のラッピングペーパーなども見つけるとつい買って、ちょっとしたお土産を手渡す時に使う。
中でも箱や缶が大好き過ぎて、作家の作品からお菓子の空き箱まで、ついこれまた溜め込んでしまう。
包む、収めるという行為は、目にしたくないリアルさを遠ざける役割も果たしてくれる。そして、中にある物がたとえ大したものでなくても、素敵に思わせてくれる。「まあ、とりあえず」と、面倒な領収書を、美しいハタノワタルさんの紙箱に仕舞えば何となく、精算や整理の苦痛さが和らぐ気がするし(錯覚なんだけれども)いらなくなった服から外したボタンを、樋上純さんの漆皮の箱に溜めると、何だか美しいパーツに感じる一枚の薄い紙であっても、包まれて手渡されるギフトは、より一層その人の気持ちがこもっていて「何だろう」と思いながら開けることがとても楽しい。
そして、ふと歳を重ねてから思うのが「薄紙に包んだようなものの言い方」の美しさ。
元々私はそうした物言いは苦手で、はっきり言いたいし、言ってもらいたいタイプ。
要するに、「全部を言わなくても察してよ」というコミュニケーションが苦手だった。
でも、相手が指摘されたとき、恥ずかしいとか、辛いと思うことは
なるべく、一枚紙に包んでそっと手渡すように伝えることは、相手への思いやりであり、その心の所作は美しいと感じる年齢になった。昔は「面倒くさい」と思っていたのに。
ときには、ちょっと紙に包んだように言いづらいことを、ふわっと伝えたり、あるいは、ぶちまけたくなる怒りも、美しい箱に収める気持ちで一旦冷ましてみたり、そんなことができる人のことを、私は美しいと感じる。
不満不平が丸見え状態なことが多い私だけれど、いつかそんな美しい所作を会得したい。
・・・なんて、紙や箱を見ると思うのだ。
PROFILE
内藤恭子
「好事家 白月」主宰
京都生まれ、京都在住。編集・ライターが本業で雑誌や書籍の仕事に携わる。趣味が高じて「好事家 白月」をスタート。作家作品の展示会やホテルなどの施設にアート作品のコーディネートなども行う。