▼香りがひらく、記憶の扉。 | 第4回
誰かとすれ違ったとき。
知らない土地を歩いているとき。
ふと漂ってきた香りに触れた瞬間、
置き去りにしていた記憶や感情が、走馬灯のように立ち上がることがあります。
きっと、あなたにもそんな経験があるのではないでしょうか。
香りと向き合う日々のなかで、自分にとっての“香りと記憶の関係性”について綴ってみました。
kako
安藤 明日生
香りと記憶のあいだ。

故郷の山の稜線。
雪の日の静けさ。
大切な人の洋服の匂い。
窓の外から忍びこんできた花の香り。
香りは、心の奥にしまっていたものをそっと引き出します。
まるで、見えないスイッチのように。
それは、花の香りなら花の姿を思い出す、という単純なことではなく、あのとき見ていた光や、胸の奥でそっと抱いていた感情そのものが顔をのぞかせるのです。
ある香りを嗅いだとき、眠っていた記憶が呼び覚まされる現象を「プルースト効果」と呼ぶそうです。
フランスの作家、マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』のなかで、主人公がマドレーヌを紅茶に浸し、その香りから幼い日の記憶を取り戻す場面に由来しています。
香りが記憶に残りやすいのは、日々の記憶を蓄える脳の「海馬」に香りが直接届くから。
五感のなかで、嗅覚だけがまっすぐに海馬へとつながり、瞬時に処理されるのだといいます。
だからもし、旅先で忘れたくない光景に出会ったなら、そのときは深く、深く、呼吸をしてみてください。
胸いっぱいに吸い込んだ空気ごと、その瞬間を、記憶に預けるように。
旅先の香りを胸にしまう。
私は旅に出た時、できるだけ「香り」を探します。
花でも、果物でも、香水でも。
オンラインに出回らず、その土地でしか手に入らない精油も多く、見つけたときの喜びもひとしお。

お仕事で訪れた瀬戸内。
空気は凪のようでやわらかく、そこに暮らす人々は、風のように軽やかで凪のように穏やかに見えました。
瀬戸内の宿「Heima」に泊まった夜、枕元に置かれていた香りは、爽快感のあるミントやヨモギ、ビターオレンジなど、すっきりとしつつ深みのある香りを感じ、心を浄化してくれてくれるようでした。
その香りを香るたびに、香りに包まれて眺めた早朝の海と空の情景や、出会った人々のことを思い出しとともに胸に残り、心に風を通してくれます。

群馬の中之条ガーデンズを訪れた日は、雨が降る前で湿気をはらんだ重たい空気。
静かで広大な庭には、それぞれの区画ごとに植えられている植物たちがほのかに香り、花や草木が出迎えてくれているようで、胸の奥にやわらかな幸せが広がりました。
その後、庭師の方が送ってくれたフレッシュなハーブたちからは爽やかな香りが広がり、その美しい景色がありありと浮かびました。
私は仕事柄、ついつい現地の香りを探してしまいますが、たとえその土地と縁のない香りでも、その瞬間の記憶が重なれば、それはあなたにとってかけがえのない「その土地の香り」になるのです。
できるだけ外に出て、歩き、食べ、光を見て、風を感じて、その土地の空気を吸い込む。
旅先で、ぜひ深呼吸を。
香りのインスピレーション。

私にとって、香りづくりは、これまでの記憶の集積です。
暮らしの匂いも、街の空気も、移ろう空の色も、肌に触れる温度も、すべてが静かに混ざり合い、やがて一つの香りへと形を変えます。
記憶と香りは、いつも隣り合わせです。
その重なりが、また新しい扉をひらいてくれる。
そして、自分の桃源郷を作り出してくれる。
季節は春へ。
あたたかな風のなか、深呼吸をしてみてください。
あなたの心に、やわらかな春が刻まれますように。

PROFILE
安藤明日生
kako / 商品開発
アロマテラピーや調香について独学で学び、2024年、OSAJIに入社。調香体験スペース〈kako -a scent-〉の運営を担当。現在は商品開発に携わる。また、自身のブランド「Lunef」をスタートし、草花木果の力を借りて、空間や人、物に合わせた企画や表現、調香を行う。
kako
自然界に存在するさまざまな素材から抽出されたエッセンシャルオイルは、一滴の差で印象が変わります。時が経っても心地よく寄り添い、日々を豊かなものにしてくれる自分だけの「家の香り」を作りませんか?
https://osaji.net/pages/kako