▼唯一無二の存在感|第2回

本連載の語り手は、京都を拠点として作家作品を紹介する不定期ショップ「好事家 白月」を主宰する内藤恭子さん。OSAJI JOURNALで毎月お届けするのは、内藤さんが見つけた小さな「奇麗の欠片」。あなたが暮らしのなかで見つける、小さな綺麗はなんですか?


今の季節、海辺や森を歩くのが気持ち良い。

無駄に右肩上がりの体が重くて、街にいるとすぐ手を挙げてタクシーを停めたくなる私でも、

自然の中をのんびりと歩くのは、好きだ。

そう言えば聞こえが良いが、歩くのが好きというよりは、

正確には、「拾うのが好き」と言ったほうが正しい。

私はホテルで作家作品の展示やコーディネートの仕事もしているが、

そこは京都の最北部・丹後半島にあり、海が近い。

時間があると、いつも海辺をぽてぽてと歩く。

もうそこは、私にとって宝の山。

子供のころは宝石だと思っていたシーグラスや、

そこそこ大きいサイズの貝殻はもちろん、

大好物の流木や、波に洗われ角が取れた丸っこい石が転がっていて、

ひたすら探しては、拾う。

一度、最高に好みの形をしたイケメンな流木があり、

どうしても持ち帰りたくて何とかしようと小一時間頑張ったけれど、

重すぎて運べなかった。

貝殻は眺めるだけでなく、アクセサリートレイや小皿にも。茶会用の焼き上がったみやかわのぼるさんの茶杯によく合う。
流木や山で拾った枝ものは、保管場所に悩むのが難点だけと捨てられない。ホテルのディスプレイにアーティフィシャルフラワー(造花)を使うときも、流木を添えると人工的じゃなくなるので気に入っている。

たびたび夢中になって遠くまで行き過ぎ、戻るのが億劫になり、

「タクシーがあればいいのに」と思ってしまう愚か者。

海辺は砂に足を取られ、まさにぽてぽてとしか歩けないので、

お宝を抱えすぎて運べなくなり、途中で泣くなく一部を諦めたことも一度や二度じゃない(学習しろって話です)

山では木の葉や、小枝を拾う。

木の実や種も、忘れずに。

拾い歴が長くなると、どこにどんな樹木が育っているだとか、

「中禅寺湖の散策道に落ちている木の葉が好き」とかなんとか、

妙な知識が増えたりする。

木の実や種もいろいろ持ち帰ってしまうけれど、特に綿毛は美しいなあと思う。もう5年ほどガラス瓶に詰めて飾っているけれど、いつみてもふわふわ。

拾ったものは、すべて形も色も違い、

同じものは一つとして無い。

それがどれほど、美しいことか。

木の葉には虫食いがあるが、その食われ方すら美しい。

「虫は何でここだけ食べて、止めたんだろうなあ?」とか、妄想してしまう。

紅葉の色合いもどれも違っているから

赤と黄が混じった木の葉を見ては、

「優柔不断か?」などと思ったり。

流木は朽ちて穴が空き、あちこち欠けてはいるけれど、

その無駄なものを削ぎ落とした美しいフォルムは、

「ダンサーの身体のよう」とうっとり撫でたりする。

ちなみに、輸入販売されている流木は

水に漬けても腐りにくいマングローブが多いのだとか。

大きい小さい、太い細い

穴が開いてる、傷がある・・・などなど

個体差が激しい、自然の拾いもの。

でもその個体差が美であり、見入ってしまうほど魅力的。

海辺に流れ着いた石は角が取れて、とても滑らかな肌触り。石鹸みたいな石にも出会う。 ぺたんこで細長い石を集めていて、ペンレストやカトラリーレストに使っている。

人だって、本来そうなのだ。

違っていて、美しい。

Sサイズじゃなくたって、シミがあったって、良いじゃない。

拾いながら、そう思う。

そして、拾いものは、ゴミじゃない。

それらはそれぞれの存在感を放ちながら、そこに居る。

貴方や私のように。


PROFILE

内藤恭子

「好事家 白月」主宰

京都生まれ、京都在住。編集・ライターが本業で雑誌や書籍の仕事に携わる。趣味が高じて「好事家 白月」をスタート。作家作品の展示会やホテルなどの施設にアート作品のコーディネートなども行う。


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