▼ルイジ・ギッリの写真集 | 第3回
OSAJI メイクアップコレクション ディレクターのAYANAです。このコラムでは、私の創造性や価値観を支え、育ててくれた本や道具を取り上げてご紹介しながら、OSAJIというブランドを通して伝えていきたい美意識のようなものについて、お話できたらと思っています。
ビューティライター
AYANA
第3回
ルイジ・ギッリの写真集

90年代後半、大学生だった私は写真ブームの波に乗り、コニカのビッグミニというコンパクトカメラを手にしていた。まだデジカメがそこまで一般的ではなかった時代、携帯電話にカメラがついていない時代。毎日のようにカメラを持ち歩き、何気ない近所の風景や友人の写真を撮っては、最寄り駅前のタバコ屋にフィルムを出して現像してもらっていた。


ファッション・モード写真が大好きだった。けれども、自分でモデルを撮影したいと思ったことはなかったと思う。もし自分が撮るなら(撮れるものなら)こんなのがいいと思えるのは、どちらかというと風景というか、目の前の景色を切り取ったような写真が多い。好きな写真家は何人かいて、なかでもずば抜けて好きなのがイタリアのルイジ・ギッリだ。

ギッリの写真に心奪われたのは97年、パルコギャラリーの3人展。ジャン・ボードリヤールが主役で、ウッタ・バースとギッリは小さめに扱われていたと記憶している。だから知る人ぞ知る写真家なのかなと思っていたが、実際はかなり人気のある人で、2014年に刊行された『写真講義』(みすず書房)などは入手困難なプレミア本的存在になっていた(今年新装版が出たので、めでたく手に入れました)。しかし私はごく個人的にギッリの写真に惹かれている感覚があり、彼の作品が世の中にどう受け入れられているのかということについては、そこまでよく知らないし、あまり興味もない。
ギッリの写真は、ただそこにある風景を何気なく切り取っているように感じられる(実際はめちゃくちゃ色々なことを考えて撮られているのだが)。しかしフォーカスする感覚、フレーミングの感覚に天才的なユーモアが滲んでいるため、そこはかとなく静かなのだれけどもポップで切なくて、そしてちょっとヘン、みたいな印象を受ける。一言で言うと、美しい。私にとっての美しいってこういうことだと、ギッリの写真を見るたび思う。そして自分の好きという感覚に自信が持てる。それはヒーリングのようなプロセスでもある。

『写真講義』を読むと、ギッリは大掛かりなセットをしたり照明を組んだりするのではなく、目の前にあるものをどう撮るのかということに細心の注意を払っているのだということがわかる。被写体のみにフォーカスを当てて背景をぼかすようなことは好みではないし、町を歩きながら被写体を探すことに精力的であるし、肉眼で見える風景とカメラで撮影した写真には必ずズレが生まれる、そのズレをどう扱い、コントロールするのか?ということをかなり考えている人なのだと知った。

あるがままであることを、どう切り取るのか?そこに向き合っているから、私はギッリの写真が好きなのだなと思う。昨今、個性を活かすこと、自分らしさを大切にすることが肯定されるようになった。そこにもちろん異論はないのだが、だからこそ「らしさをどう見せていくのか」がますます大事になる。自分らしくあるということは、何もしなくていいということにはならない。無理な努力が必要という話ではなくて、答えはひとつではないからこそ、オリジナルの視点や好奇心、何を大切にするかの取捨選択、そういったことが試される、ということだ。
「これさえやれば間違いない」というティップスもいいけれど、「こういう風景があるけれど、あなたはそこにどんなイメージを見る?」という問いかけのなかに、美しさが生まれるきっかけを予感していたい。だから私はギッリに惹かれるのだ。

PROFILE
AYANA
ビューティライター
ビューティライター、OSAJI メイクアップコレクションディレクター。コラム、エッセイ、インタビュー、ブランドカタログなど広く執筆。化粧品メーカー企画開発職の経験を活かし、ブランディングや商品開発にも関わる。著書にエッセイ集『仕事美辞』『「美しい」のものさし』(双葉社)がある。2025年よりPodcast「にあう色が知りたい」がスタート。
https://ayana.tokyo/
Podcast「にあう色が知りたい」
連載
『需要・受容・樹葉』
3つの「じゅよう」を並べました。
需要:求めること、ほしいもの。
受容:受け入れること、肯定すること。
樹葉:幹の先、枝の先に生まれる葉。表現・創造されたものたち。
私たちは人生を通して、3つの「じゅよう」を味わい、たのしむのではないでしょうか。求めることをたのしみ、受け入れ認め合うことをたのしみ、そして自分や他者の表現をたのしむ。私個人の「じゅよう」が、誰かの「じゅよう」に繋がり、重なり、変容し、また別の「じゅよう」が生まれていく、そんな連鎖を夢想しながら、文章を綴っていけたらと思います。